シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| ネタバレ?考察 ゲンドウとミサトはなぜ子供と向き合わないのか? 現代の片親と重ね合わせて考察する

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パチンコで勝ったからというわけで、いままで見ようと思ってみていなかった新劇場版エヴァンゲリオンを年末年始に一気に見ました。
もうすぐDVD、ブルーレイが発売されるということで、先駆けて視聴しました。2023年1月時点で、Amazonプライムで視聴することが可能です。

私なりに見て思った考察と、シンエヴァンゲリオンをこの視点で見ると面白いかもしれないということで、発信していきます。

過去にアニメ、映画を考察してきていますので、よろしければほかの記事もご覧ください。

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シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| ゲンドウとミサト不器用な親子関係

シン・エヴァンゲリオンで判明した新しい事実、設定などは複数あるのですが、私が気になったのは、ミサトの設定。

ニアサードインパクトで、愛する加持を失いました。加持が一人残ってニアサードインパクトを止める瞬間、ミサトはお腹に加持の子供を身ごもっていました。

ミサトは生まれた子供に、加持と同じリョウジという名前をつけて、ミサトが立ち上げた反ネルフ組織のヴィレの支援組織に置きつつも、一度も会っていないです。

このミサトとリョウジ、碇ゲンドウとシンジの関係性がかなり似ており、敵対組織でありながら、子供への接し方は似ているように見えます。

 

なぜ、ミサトとゲンドウは自分の子供と向き合わないのか?

ゲンドウもミサトも眼鏡やサングラスをかけています。これは他者と心の底から向き合ってコミュニケーションを回避したいというあらわれになります。

さらにいえば、ゲンドウは自らを改造したことで、目のものがなくなっています。

ミサトもゲンドウも愛する相手を失っており、忘れ形見として子供が存在しています。

ゲンドウはラストの述懐で「子供は私に対する罰だと思った」と表現しています。

ゲンドウにとってもミサトにとっても、子供は愛する対象であるとともに

  1. 最愛の人を思い出してしまうトラウマの装置
  2. 子供と接する幸せを得ることは、失った愛する人への裏切り

この2つの意味を持っていると考えています。

 

 

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エヴァンゲリオンに明確な親子関係が描写されていないのはなぜか?

ここまで、親子関係を描いているので、庵野監督には子供がいるのかどうか、ネットを軽く調べてみました。

明確なソースはなかったのですが、どうやら子供はいないようです。背景として、子供をあえて作らなかったのか、つくろうとしてもいろいろなハードルがあって作れなかったのか、それはわかりませんし、プライベートな内容です。

ただ、ゲンドウとシンジというテーマをまたミサトとリョウジで繰り返すということは、エヴァンゲリオンを通して、親子関係というテーマに並々ならぬこだわりがあったのでは?と思います。

シン・ゴジラ、シン・ウルトラマンでは、男女の共闘、相棒、仕事仲間として深まっていきましたが、恋愛や結婚、さらには出産まではつながっていません。

田舎の風景、政府や軍の組織構造など現実の模写であったり、科学空想力、SFの力というのはすさまじいレベルなんだろうなと思います。

親子関係に関しては、あまりにも現実的で生々しいものになるため、しっかり経験しないと描き切ることが難しい。もしかしたらミサトとリョウジの親子関係を描こうという考えはあったかもしれませんが・・・

個人的にシンジがしっかり成長して、恋愛して結婚して子供を育てるなんて映像も見てみたかったですね。

 

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現実はエヴァンゲリオンのメンタリティを超えてしまった

エヴァンゲリオンが放映された90年代というのは、鬱だったり、不登校だったり、自殺だったり、様々な暗い社会問題が考察、議論されていた時代でした。もちろん今でもそのような風潮は残っています。

一方で、新劇場版がスタートした2007年以降は、アベノミクスや3.11、コロナショックなどもあり、もう戦うしかないという状況がエヴァンゲリオンにも反映されています。

 

 

碇シンジは、なんども自分の罪や戦う恐怖に挫折しながらも、最後は数々の犠牲を乗り越えて、自分の力で立ち上がります。

そして、ゲンドウとミサトの愛しながらも子供を遠ざけるという行為について

これはほんの一例ですが、私たちはシングルマザーや、シングルファザーといったいわゆる片親が、1人で働きながら、時に家族や友人の力を借りて、子供をしっかり育てるという光景を目にしています。

 

彼らは、死別したゲンドウやミサトのように愛する人と死別したケースもあるかもしれませんが、中にはDVだったり、不倫されたりといった裏切られた、傷つけられたという被害を受けて、離れています。

ここでも、子供というのは愛する対象であるとともに、自分の過去のトラウマにスイッチを入れる装置になりえます。

 

 

愛する人の遺伝子が半分はいった子供を愛し、育てるというのは、子供のいない私にとっては、人としてとても逞しく、尊敬します。(本人からすれば、子供を愛するのは当たり前っていわれそうですけど)

テレビ版のエヴァンゲリオンの公開、そしてジブリの台頭から、フィクションは現実社会の生き方や、思想を引っ張ってくれる、手引きしてくれるという幻想があり、その幻想で生きてきた人は私だけではないと思います。

 

シンエヴァンゲリオンの「さようなら全てのエヴァンゲリオン」はフィクションが、社会を手引きしてくれる役割が一時終わったというメッセージにも受け取れました。

もちろん、社会が混沌を増したり、逆に平穏が長続きしたりした場合、フィクションの物語性が求められる機会はやがて訪れるでしょう。

 

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神殺しは父殺しでもあり、子殺しでもあるということ

私は33歳です。同世代でも一つしたの世代でも子供を生んで、子育てしている人はいます。

フィクションでは、しばしば子供が父親を乗り越えることが、成長の儀式であるという描かれ方がされています。

シンジは精神的に成長し、ゲンドウはシンジに対して

「他人の死と思いを受け止めるとは大人になったなシンジ」と評価しています。

これは裏を返すと、ゲンドウがユイへの想いを全く受け止めることができずに暴走している様を示しています。

ミサトはシンジとの別れ際に

「息子が父親にしてやれることは、肩をたたくか殺してやることだけよ」とエールを送ります。

この殺すという強烈なワードは何か?

乗り越える、倒すという意味の最上級として使っている節もあります。

ただ、私は意識しすぎないことという意味もあると思います。

ゲンドウもミサトも子供に対して、意味やメッセージを考えすぎて、結果的に遠ざけてしまって、後悔しているわけです。

私もそうですが、日本の少子化というのは、経済的な問題もさることながら、子供に対して意味や理由を求めすぎて、億劫になっている一面もあるのかもしれません。

もっとシンプルに、本能のままに人と向き合うことができないのか?

そして、人に対して過剰な自意識や意味を求めないことが、自分を救うテーマになるかもしれない・・・

おっと、これはエヴァンゲリオンというより私の補完計画になってしまいましたね。ただ物語はそのほうがいいかもしれないです。

 

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