今回は、アカデミーとカンヌの二冠を達成したポン・ジュノ監督、ソン・ガンホの演技が光る
「パラサイト半地下の家族」についてのネタバレ、結末、考察、感想レビューになります。
上映時間2時間10分ほどに凝縮されたシーンを紐解きます。
ネタバレもありますが、なるべくほかのレビューと被らないように、自分の考えを多めに入れたつもりです。
個人的にパラサイトはこわい映画だなーと思いました。メッセージ性や描写もそうなんですが、単に富裕や普通層の自己満足のためだけに用意された貧困映画ではなく、貧困に対して批判的なスタンスもあるし、これからのAI社会の未来図なども垣間見せる映画とさえ思います。
このブログでは、映画評をいくつか行っています。最近の映画も多いです。映画評はライバルが多すぎて読まれませんが(泣)、時間のあるかたは読んでみてください。
パラサイト 半地下の家族「貧困」であること見て見ぬふりしている

期待値の高さで、公開前にパンフレットを買いました
パラサイト半地下の家族は、目に見えてコミカルなシーンもあるし、こわいシーンもあります。
振り返ってみるとメッセージ性、貧困についてのこわさがじわじわと響く映画です。
パラサイトはすべての登場人物が、魅力的ですが、特に半地下家族の長であるキム・ギテク(ソン・ガンホ)と、息子で浪人中のキム・ギウ(チェ・ウシク)が印象に残りました。
どちらも半地下に住んでいて、ステータスは同様に貧困ですが
- ギテクは、自分で事業を起こして貧困になり、貧困であることを自分で選択したかのように、楽しんでいるように生きている
- ギウは、親によって与えられた貧困であることを自覚し、どのような手段を使っても貧困から抜け出そうとしている
前半の30分に及ぶ、キム一家の半地下シーンが、深刻であるはずなのに、どこかユーモラスに見えてしまうのは、ギテクがやれることをやって、半地下生活を謳歌しているように見えるからではないかと思います。
ただ、話が進むにつれて、ギテクは、自分が深層に抑え続けていた、「貧困への劣等感」というのを刺激される出来事が起こります。
自分よりさらに「下」の貧困を目の当たりにし、「臭い」という明確なキーワードによって、貧困であることを炙り出されていきます。
先進国であり、スマートフォンなどの情報技術が発展したといっても、見える貧困と見えない貧困があるという問題提起は、興味深いです。
そして、多くの家庭がスマートフォンを持ち、外部と接点が持ちやすいため、自分たちが貧困であることを受け入れにくい世の中になっています。
賛否両論あるかもしれませんが、日本でいえば東京に行って、最先端の情報を吸収することが豊かだと思って、家賃や衣食住だけで、給料すべて使ってしまうことは、貧しいことではないかと思ってしまいます
パラサイト 半地下の家族 ソン・ガンホ演じるギテクは、子どものギウやギジョンに比べて、思想が貧しいことが怖い
「パラサイト 半地下の家族」は3つの家庭が登場し、それぞれ生活水準や考え方が異なります。
しかし、親子間でも考え方や貧富についてのとらえ方が違うのもこの映画の面白いところで、世の中の本質をついているな~と感じさせる作品になっています。
キム一家の中で、ソン・ガンホ演じるギテクは、貧困を受け入れていますが、子どものギウやギジョンは貧困を抜け出そうとしています。(ソン・ガンホはポン・ジュノ監督の映画に何作か出演されていますが、毎回素晴らしい役者だと圧倒され続けています)
例えば、序盤のピザの箱を作るという内職で、ギテクは、ピザの箱の作り方という動画を見て、妻のチュンスクは、不良品があったことを経営者に指摘され、給料を減らすといわれても抗い、交渉します。
貧しいながらも、働き方を模索し、たくましく見える描写なんですけど結局
給料の安い箱作りの内職にしがみつく思想の貧しさが浮き彫りになっています。
一方で、ギウとギジョンは、ピザ屋の経営者が人材難で経営が苦しいことを見抜いたうえで、自分たちを雇わないかと交渉します。
単にバイトとして雇われているなら、日本の感覚でいえば脱貧困とまでは至りませんが、失業率やニート率が急上昇している韓国の社会では、雇用を得るというだけでも、評価の対象になるでしょう。
ちなみに、ムン・ジェインを最低賃金をいたずらにあげすぎたことが要因で、非正規さえも弾かれる世の中になったとか・・・
また、父母の方法では箱を作るだけで、彼らより箱を作るスピードが速く、丁寧ならば、日銭をかせぐこともできませんが、バイトとして採用されれば、少なくとも内職よりは継続的に稼ぐことができます。
そして、ギウとギジョンの計画によって、パク家へのパラサイトが始まるのです。
パラサイト 半地下の家族 いわれたことを素直に守って貧困に陥る中年・高齢者たち
半地下の家族というワードがパワーワードで、象徴的ですけど
我が国日本においても
- 老後2000万問題
- 5080問題
- 黒字リストラ問題
あと、国は就職氷河期世代を対象に雇用を創出しようとしていますが、地方公務員の枠を少しだけ増やしただけで、意味ないやん・・・と思います。
高齢者大国で、財政どないすんねんという状況ですが、すでに生活保護の受給者の多くが高齢者ということ、GDPの右肩下がり、増税しか考えない利己的な政治家と、あげればきりがないぐらい絶望的な状況。
パラサイト半地下の家族のギテクがそうですが、国の雇用方針や常識や周りの声に流されていけば、貧困に直結することを示しています。
ネタバレ 親の貧困の犠牲になる子供たち
ここからは、本編の重要なネタバレになります
この映画では、殺人事件が起こります。そして加害者は3人、被害者は4人にのぼります。なんと4人も死者がでているのです。
そして、加害者のうちの2人がキム一家の父母2人、被害者のうちの1人が娘のギジョンになります。
特に最初の殺人は、母が階段から蹴落として、父が助けを呼ぶどころから縛り付けて死期をはやめたという立派な殺人になっています。
千と千尋の神隠しのように、親の貧困や行為の不始末を子供が請け負うというラストになっています。
インタビューでポン・ジュノは結末から映画を描いたのではなく、映画を撮影するうちに結末を考えたらしいです。とはいえ、命を奪うものと奪われるものの相関性や人物の選定には、明確な理由があるはずです。そうでなければ、単にバイオレンスな映画で終始してしまいます。
ラストシーンで、殺人をした、ギテクが地下へ逃亡し、息子のギウは半地下生活に戻り、将来金持ちになって、家をかって、父親を助けることを計画して終わります。
おそらく父は助からないでしょうし、ギウは助けることができないと僕は考えています。
- キム一家はまだ半地下生活を続けている(現状を変えることができない立場にいる)
- 母は殺人の加害者でありながら、罪を償っておらず、その母とギウは一緒にいる(母の罪を息子が間接的に背負い続けることを意味している
推測を含みますが、これらの要因から、ギウはギテクを助けられないという示唆が込められています。
ギウは両親が人を殺めた瞬間を目の当たりにしていません。そのため両親が罪を償うべき人間で、誤った考えをもっており、離れなければならない存在という認識が芽生えません。
また、ギテクも最愛の娘が自分たちの行為で間接的に命を失ったことを知りません。むしろ被害者面です。
ギウは水石を戻したから、地に足をつけて生きることができるというポジティブなラストにとらえることもできなくはありませんが、罪や過ちがないがしろにされる、許されることで登場人物を甘やかす映画ではこれまでの流れからないでしょう。
パラサイト 半地下の家族 現代の結末 富裕層は貧困層と無理をして雇用する必要も付き合う必要もないという警鐘とこわさ
ネタバレを受けてのパラサイト評価でパク家のダソンという息子が、パク家に棲みついた貧困をすべて理解したうえで、嫌悪しているという評価があります。
貧困からのSNS信号なんか知らないし、同じ空気やにおいをかぐことも耐えられない。人間ではなく幽霊のような実体がなく関係したいものでもないし、絵にかいた黒一色は、貧困層にとってのゴ〇ブリ・・・かなり誇大解釈でありますが
少なくともパク家の父母であるドンイクやヨンギョに比べると、相手の人間性や性格を見る前に、貧しいというステータスだけで、付き合わない・・・という可能性があります。
姉のダヘは、おそらくお金持ち学校に通って、容姿端麗の男子がいるにもかかわらず、容姿が平凡で臭いのあるギウ(でも頭はいい)にひかれ、抱きしめながらキスをできるほどに愛しています。
一方で、ダソンは、ギジョンに絵画を教えてもらっており、母子のようなスキンシップをとっているような描写もあるのですが、ギウとダヘのような言葉での交流などの情報が一切カットされているんですよね。
ダソンの特殊な性格もありますが、多少の問題があっても雇用を続けるドンイクやヨンギョに比べると、ダソンは絵画の教師をすぐにやめさせます。
この状況って、いわゆるトリクルダウン。一部の才能が豊かでお金を持っている人間が雇用を創生したり、多額の税を納め、貧困者も豊かになっていくという考え方は終焉を迎えることですよね。
実際、一部の富裕層が富を独占しており、残りの富を普通の人々や貧困層が奪い合うというのが、世の中の構造です。
ただAI技術が発展したりすれば、わざわざ能力が低い人間を雇用する必要はなくなります。
最近はYOUTUBEやブロガーでフリーランスして荒稼ぎしている人が多いですけど、企業側でユニークな人材を自前でたてて、YOUTUBERやブロガーにしてバズらせることができれば、YOUTUBERやブロガーへの需要は一気に減ります。
情報社会の発展は、いまでこそビジネスの多様化や、情報取得の多様性というメリットが際立っていますが、行きつく先は、富裕層、権力者などが有益な情報を独占したり、発信する立場になれるとこに行きつくんじゃないでしょうか。
やむなく肉体労働として、人件費を払う必要性がなくなるとすれば・・・
この映画で描写されたダソンのように、富裕層は、貧困層をわざわざ雇用したり、付き合ったりする必要はなくなる世界が、目の前にきているのではないか?という警鐘に見えてなりませんでした。
パラサイト 半地下の家族 2時間10分余りにつめこまれた上映時間に込められた貧困への批判と富裕層の現実
以上が、僕が見たパラサイト半地下の家族の評価でした。ネタバレも含めたあらすじは、すでにウィキペディア先生がやってくれています。
近所に映画館がないけどあらすじだけ知りたいという人や、逆に前知識を持った方が入り込めると思う人は、ウィキペディア先生を見てからでもいいんじゃないかと思います。
貧困映画の多くというのは、貧困はかわいそうとか、貧困の現状を知ることが重要なんだ!!っていう、正直発展性も建設性もない映画が多いです。「ジョーカー」なども実はその類の映画だと思います。
映画をみるだけの金と余裕のある人が、「うわー貧困って大変だね」という教育したかのような満足感と、「貧困をなんとかせねば」という手軽に得られる義憤(ぎふん)という需要のために存在するものもあったり。
言葉を選ばなければ、貧富の差を描いた映画というのは、卑(いや)しくなる可能性を秘めているわけです。
少なくともパラサイト半地下の家族は、貧困を良しとしている、富裕層をいたずらに敵視している映画ではないです。貧困者が貧困である思想の貧しさや停滞をしっかり批判していますし、富裕層は、貧困層を無視したりしているわけではないが、将来的に貧困層は必要でなくなるという警鐘もあります。