村上隆渾身の一作 めめめのくらげの感想と考察 フレンドとは何か? 子供への可能性について

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村上隆がプロデュース、脚本、監督と雇われではなく、カイカイキキの代表として、自分の映画として世に放った大作

めめめのくらげ

 

こちらを見たので、過去にもののけ京都などを見にいった筆者の視点で語ってみる。

映画レビューを見ていると、高得点というわけではなく、ハードルをあまり上げずに見に行ったが、あまり退屈せず全編みることができた。

もちろん、気になった描写などはあるものの、語る価値のある映画だと思う。

 

 

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めめめのくらげってどんな映画? 子供には可能性があるというのは嘘か真か?

めめめのくらげ公開は、2013年。つまり東日本大震災の後であり、主人公の正志は、津波で父親を失っており、一種のトラウマ体験になっている。

プロットは、どことなく庵野秀明のエヴァンゲリオンに似ているような気がする。

過去にトラウマや傷をかかえた少年少女が悪の秘密組織に魅入られ、少年少女の負のエネルギーを利用して、フレンド(モンスター)が生み出されていく。

 

悪の組織の目的は、その負のエネルギーを最大まで溜めた化け物をつくって、地球を破壊して世界をリセットするというもの。ここはありきたりな内容だ。

化け物を作るために、特異点?として見いだされた正志に目を付け、彼の負の感情をあつめたデバイスで化け物を降臨させた。

 

震災の後に、大人の嘘や二次元の魔力というものがすべて浮き彫りになってしまった。子供達には噓八百ではい現実をみせるための映画として、村上氏は位置付けているらしい。

だから、主人公で田舎に移住してきた正志は、震災をネタにされていじめられるし、仲間はずれにもされる。

 

ヒロインの咲は、親が熱心な宗教信者で巻き込まれてしまう。

不登校の子供だって出てくる。

応援するためのフィクションと、頑張らなければならないというノンフィクション性のあるメッセージが混在するのがこの映画の特徴。

 

子供たちの負の感情によって友達となるフレンドが生まれて、その負の力が大きければ大きいほど、ものすごいフレンドが生まれる…それはすごく嘘っぽいフィクション。

正志は、いじめに立ち向かったり、ヒロインの影響でいじめっ子を許そうとしている。だから正志がちゃんと物語の中で成長しているって描写があるのがいいし、最後に化け物にとどめを刺すのは、くらげ坊ではなく、正志というのもいい。

 

インタビュー内容を要約すると、現代の大人や若者にある種、絶望した村上隆が、いまの子ども、100年後200年後の子供のためのバトンとして、現代美術の新しい形として映画をのこしたというのが、しっくりくる。

 

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めめめのくらげにおける フレンドについて デバイスを使って操るという危険性

フレンドの起源については、上述した。

フレンドは誰がみても、ポケモンや妖怪ウォッチのような、相棒、ペット、戦力、友達のような存在だ。

 

シリーズ化しやすく、話も膨らませやすく、少しでもかわいいデザインをかけば世の中に受けられやすい。

このような優れたフォーマットを村上隆が取り入れ、自分のデザインしたキャラクターを間接的に広めていくためのツールとしてフレンドを活用している。

 

そして、一見ポケモンや妖怪ウォッチのような世界観に、震災や原子力、いじめなどの現実的な問題を組み込むことによって、より物語がスリリングに見えるというギャップも仕掛けている。

 

個人的に興味深いのは、フレンドは人間に干渉できるという点だ。

つまり、邪悪な人間がフレンドを従えたら、いくらでも暴力の手段として活用できる。極端な話、殺人だって出来てしまうということだ。

 

そして、そのフレンドは口で命令することもできるが、スマホのような「デバイス」を使って操ることもできる。

現代の子供は物心がついた時点でスマホを所持しており、すぐにSNSなどの大人の世界に干渉することが可能だ。LINEでお互いのプライベートにも簡単に干渉できる。

スマホは人を救える道具にもなれば、殺せる道具にもなるという言葉を聞いたことがあるが、フレンドはある意味、そのスマホのモンスター化した姿といえなくもない。

 

 

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現代の若者が抱える「こども」について

最後に著しく脱線する。めめめのくらげのメッセージ性について感じた事であって、本編との関係性はない。私の戯言に付き合っていただけるなら読んでいただけると嬉しい。

村上隆は商売人でもあり、かなり父性的な人間だと思う。自身も子供がいて、カイカイキキという会社を成立させて、多くの社員をいま食べさせている。

 

できることなら、自分の持っている能力や稼ぐ力をメッセージとともに次世代に受け継ぎたいと考えているのだろう。

 

でも、今の若者の多くはそういう考えにはなかなかならないと思う。

少子化というのは、若者にたくさんのお金を配れば解決する問題なのか?という話題にも通ずると思う。

 

ネットの発達によって、自分のみたいもの、発言したいものだけを選べるようになった。その行く末が、わかる人、わかりあえる人とだけ気持ちよくつながれたらいいという社会だ。

 

かくいう僕も学生時代に比べて、自分と価値観が違う、意見の違う人の意見に対して、反発することはなくなり、「この人と付き合うことはやめよう」と避けるようになった。

子供を持つコミュニケーションというのは、常にそうした不快感と戦うことになるのかなと思う。

そして、テレビのインタビューなどには、若者が「自分は子供をもつべき人間なのか迷う」という言葉を発言している。これは僕も同じ価値観を持っている。

 

子供は確かに自分の子供であれば、遺伝子情報や育てたときの教育、価値観などは受け継いでくれる。しかし、自分の生身の思想や価値観というのは、自分が過去に書いた日記だったり、SNSだったり、発信した動画にこそあるのではないか?

では、自分の遺伝を残すってことはただ自己満足ではないのか?これが現代人の若者が抱えるジレンマなのではと推察している。

 

実はもう子供に何かを伝える、教えるというメディアはもう衰退しているのだと思う。

幼児系メディアはまだ残っているが、アニメなどは次々と予算の関係もあるが、深夜に移行しているのが、その最たる例だと思う。

 

つまり、子どもが減少しているなら、若者にどうやって子供を作ってもらうか?というところの思想のメディアのほうが求められている…が僕はたぶんそんなメディアがでても応援できないと思う。