2年以上の歳月をかけて、アマゾンプライム独占配信からスタートした仮面ライダーのニューコンテンツ、アマゾンズも今回の劇場版をもって完結を迎えました。
リアルが忙しく、鑑賞に1か月を要しましたが、劇場版の最後ノ審判を見ることができましたので、感想を徒然なるままに書きたいと思います。
あと、僕はオタクなので「ここはこうすべきだ、こういうところがいい」というストライクゾーンせませまな意見をいいます。以前、それを指摘されたことがありますが、あくまで個人の趣向ですし、誰だって「この描写やセリフはこうなってほしい」って思うところはあるとおもうので、あえて書きます。適当で読みづらいですけど・・・・
ちなみにネタバレ全開です。容赦なく全体です。この作品はそうでないと語れません。アクションがすごいとか、相変わらず描写がきついぐらいして言えませんから・・・・
脚本家交代について
まず、今までメインの脚本をつとめた小林靖子に代わって、エグゼイドのすべての脚本を担当した高橋悠也がメインライターを務めます。おおむねアマゾンズイズムを継承し、メッセージ性も強烈なものが生まれたと思いますが、気になる粗やちょっとこれは?という描写もままあります。
ちなみに「エグゼイドは評価されすぎ」が僕の持論です。
・少女のアマゾンが絶体絶命のピンチ時になぜ変身してひとっとびしなかったのか?
・仁が人間を殺したルールを破ったといわれているが、まだ人間のままアマゾンに変身できるテクノロジーが開示されていないので、おそらくニューアルファもアマゾン細胞はうちこまれている
・アマゾン牧場計画の肝である仁を手錠でしばりつけているだけのゲロ甘セキュリティ。鍵もそばの服の中にあるというガバガバぶり
・悠は抑制のレジスターを完全に外して、間接的に人を食べてしまったのだが、食人衝動はあらわれるのか・・・?
・一般へのアマゾン肉の普及を目的としたアマゾン牧場だが、来る客がすべてカニバリズムにもともと関心のあった富豪層ばかりで、単に人=悪みたいな勧善懲悪的な品位に下がってしまった。日本全国が食料困難で、たまたまレストランに訪れた家族が、出された肉を食べて「こんなに安くておいしい肉が現代で食べられるなんて信じられない」その裏では無辜のアマゾンが。のほうが衝撃的だった。悠が食べている老人の机から肉を放り出すのも犠牲になったアマゾンへの思いやりに欠いている。肉を拾うか、老人たちにアマゾンパニッシュ!!(それはあかん)をくらわせないと。
そうかアマゾン肉であることを分かったうえで人間側も「肉を絶って生きることなんて考えられない」という肉への執着が確かにあることを示す描写があったらな・・・という妄想。
ちなみに家族役の親は天野浩成と雛形あきこの肉夫婦で決まりです(笑)
・草食の新型アマゾンのデザインがダサい・・・響鬼の前半と後半のようなギャップ。まぁあえて作り出されて、草食という位置づけで差別化しているんだろうけど。
シナリオについて
シーズン2のラストで4Cの橘局長がアマゾン殲滅作戦を敢行するようなシーンが挿入されました。しかしながら、劇場版ではアマゾンを利用して、食べられたら食べ返す。草食アマゾンの培養による食肉の安定的な供給を目的とし、ロビー活動を行います。
シリーズで一貫して、アマゾンも巻き込まれる一般市民も野座間製薬の生物兵器という研究の犠牲者で、その悲劇と復讐の連鎖が繰り返されています。
その過程で、胸が引き裂かれる思いでこの物語を見てしまうのは、徹底的に人の欲望やささやかな願望に対して
・お腹が減って、目の前にあるものを食べたい
・長年付き添ってくれた人をただひたすら愛したい
・生まれた命を大切に育てたい
・静かに安心して暮らしたい
・青春を謳歌して、友達とただ笑っていたい
これらすべてに、アマゾンが繁殖する、アマゾンが暴走する、アマゾンに食われてしまうという残酷な現実を突きつけてきます。
しかし、欲望が深いというのがそもそも人間であり、僕らはそういう欲望の深さに人間らしさを感じてしまいます。たとえその先に悲劇的な結末を迎えようとしても、今を生きる、今をよく生きたいと思う衝動を抑えることができません。
アマゾンというのは、特撮作品でありながら、いままで特撮、特に仮面ライダーが封印してきた自我や、欲望を是として、自己犠牲に対して懐疑的な問題提起をたたきつけているような作品に感じられます。
水澤悠の立ち位置
アマゾンズの主人公である水澤悠は、孤独や自己犠牲をいとわない従来の仮面ライダーとは反対に、誰かを食べ、誰かを殺すことで自分の生を得るという選択を取りました。
ヒーローというのは犠牲となる他者、倒されるべき相手がいることで成立する存在であるということをアマゾンズを見ると思い知らされることになります。
これまでの悠は
シーズン1で誰も殺さず、人とアマゾンが共存できる世界を作りたい
シーズン2では人に隠れながら、アマゾンだけで生きられる世界を作りたい
彼の理想は、甘く、結果的に人がアマゾンをアマゾンが人を殲滅しようとする悲劇へと傾いたというのがアマゾンの流れです。
そして、そうした願望ができるのは彼がアマゾンとして特別で力をもっているからです。しかし、劇場版で彼はニューオメガという強力な力を持っていますが、それより強く人間ベースのニューアルファには太刀打ちできません。そして仁を殺しきるだけの覚悟を彼一人では持ち合わせていません。
だからこそ、誰かを助けるのではなく、自分が生きる。自分が生きるために誰かを食べ、誰かの犠牲によって成り立っているということを知るという悠の成長が描かれた作品でもありました。
これは特別な話ではなく、私たちも多くの命を食べ、同じ人間でも多くの人々の労力や犠牲によってできた利便性を享受して生きています。そして時には競争によって誰かを蹴落として安定した職や伴侶を得ることがあります。
仮面ライダーアマゾンズはきれいごとでは終わらせない人生の縮図という点において、平成初期で描きたかった仮面ライダー×ヒューマンドラマの完成系に達したといっても過言ではないでしょう。石田監督が本作を自身の最高傑作と位置付けるのも頷けます。
鷹山仁の立ち位置
自分が生んだアマゾン細胞をすべて葬り去るまで、自分がアマゾンとなって戦い続ける鷹山仁。
しかし、彼が生き続けるほどにさらに凶悪なアマゾンが生まれたり、自我をもったアマゾンが食肉として殺され続けるという悲劇を生み続けることになります。
仁の行動は一貫して、人を守るためアマゾンと闘うというヒロイズムに沿った行動ですが、自分で作ったものを自分で破壊するまで諦められないという深層心理は、なんとか作ったアマゾン細胞を軍事、食肉として利用しようという橘局長と同じような立ち位置になってしまっている気がします。
そのため、シリーズを追うごとに鷹山に対してスタッフ側は、反面教師的な描き方を見せます。
彼にとって唯一の救いは、間接的に殺してしまった七羽になります。七羽の幻影によって赦されるために彼は最期まで戦い、悠が生きることを認めたのかもしれません。
あと、自分たちで生み出した厄災をおさめようとして、さらに悲劇が生まれるというのは、まさに野座間製薬とアマゾン細胞の関係で、彼は人間の負の一面などを示すうえで、アマゾンという作品を象徴するキャラクターであることに疑いの余地はありません。
総括 気になる点もあるが、ドラマ版では浮き彫りにならなかった点もみれたので70点
序盤でとりあえずああしてくれ~これおかし~って語りましたが、メッセージ性やキャラクター性はよく表現できていました。これまでそのキャラが守り続けていた倫理をあえて壊して、どうやって行動させるかという点は2年続いたタイトルだからこそできたことで、僕はこういう既成概念を壊してく脚本は意味があると思います。
本当にスタッフの皆様素晴らしい仕事をされたと思います。
実際に目頭が熱くなるシーンがいくつもありました。
すでに一か月が経過し、近隣でも1日1回上映となっていますが、最後に一つだけ言いたい。
ラストシーンは劇場で同じ仮面ライダーファンと共有してみてほしい
このラストシーンは唐突に挿入されるものですが、仮面ライダーのアンチテーゼとか描写への挑戦を続けながらも、「やっぱりアマゾンズも仮面ライダーなんだ」と実感させるまさに原点回帰なシーンです。マイクスギヤマ、小林太郎の新曲のEDとともに感慨に浸りましょう。