表現の不自由展その後のその後からまとめながら考える 特攻隊のあの作品と津田氏の考えについて

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あいちトリエンナーレの催し物のひとつ

表現の不自由展・その後

TwitterなどSNSの動向について、いち早く伝えていたジャーナリストの津田大介氏を総合監督として、迎えたこの表現の不自由展は

慰安婦像、昭和天皇の肖像画と思しきものが焼かれている絵、そして、特攻隊の寄せ書きが書かれたところに、「日本は今病気にかかっている」など書かれたかまくら。

特に最後に紹介した作品は、当初

「間抜けな日本人の墓」と紹介され、「特攻隊を侮辱している作品ではないのか!!」と激しい議論が交わされていた。僕も最初は、「これはあんまりだろ・・・」と思ったが、調べていくうちに全く違う意図が込められていたようだ。

墓に対する見解のトゥゲッター

◎柏の葉マラソン-⑩「充」の作者。中垣克久「時代の肖像」は、「事件」になった。

「文化の独立性汚した」 あいちトリエンナーレ出展者

正しくは、「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種 idiot JAPANICA 円墳」

アメリカのようなマッチョで武装する国を目指すと、また戦争を繰り返してしまう。日本人は死んだらアメリカ人になれると思っているのか?という痛烈な皮肉が込められているらしい。

中垣氏は、他にも原爆によるきのこ雲を檻にいれた作品を出しており

「アメリカによる原爆投下の罪はまだ追求されていない」ということを主張されているらしい。仮に、この檻を表現の不自由で出していたら・・・・

表にペタペタと主張がかかれて、中が空洞というのは、そのままのとおり「主張だけで中身がない」。さらに星条旗がかけられているのは、「日本人のためと英霊たちのことを想っているように見えるが、アメリカに属国状態になっているままではないか」という問題提起だと感じられた。

他にもハイヒールのかかと部分を安倍首相の口に突っ込むような作品の画像も拡散されたが、トリエンナーレでは全く展示された形跡がなかったとのこと。

トリエンナーレ騒動により、ネットの情報というのは、今も昔も玉石混交であり、デマが正当なものとして、過大に評価され、拡散される恐れもあることを知る機会になった。

いまとなっては、正確にどのような作品が展示されたかを実際に見れるわけでもないので、公平に判断を下すのも難しくなっている・・・

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表現の不自由はやはり中止すべきだったと思う

そのうえで、僕個人は、今回は展示が中止してよかったと思う。

なぜなら、津田氏は最初から炎上目的で開催をもくろんでおり、結果的に大変な炎上が起こって、中止を余儀なくされたが、関係者や津田氏本人にも何らかの危害が加えられる可能性を考慮すると、そこまでして、展示すべきものか?というのが一つ。

京都アニメーションの例を考えると、恐ろしい(関係者は逮捕されているようだが)

あと、津田氏の過去の百田尚樹氏の不買運動なども踏まえると、表現の自由や、芸術作品を盾にしているけど、一番芸術というのを愚弄しているのは、津田氏ではないのか?というのが僕の考え。

あらかじめ、保守かの反論も織り込み済みという意図がありながら、「フラットな目でみてほしい」とは通用しない。

主張が似通った人たちの作品を並べてしまうと、観覧者もフラットな気持ちで裁定することが難しい。

天皇を批判する作品があるなら、逆に天皇をたたえる作品を、戦争を非難する作品があるなら、逆に戦争を賛美してしまうような作品というバランス感覚がこの手の展示会では重要だったのだろう。

確かに菅官房長官や、河村たかし氏の発言から、「検閲」という印象を抱く人もいるかもしれないが、他方で、表現の自由をツイッターで訴え続ける立憲民主や共産党議員を見ると、彼らも芸術を利用した政治活動をしているのではないか?と疑問を抱く。

愛知県知事の大村知事が元自民党で、名古屋市長の河村たかし市長が元民主党なのに、保守とリベラル側の発言が真逆というのも、今回の騒動をややこしくしている。

説明でも、政治的理由で公開を拒否されたものを集めたと語っているが、他国の作品だったり、政治理由とは関係ない性的理由などで撤廃されたものを集めて、年齢制限をかけていれば、多少の公平性は保っていたのではないだろうか?

書籍にして写真をあつめて、津田氏の見解やメッセージを挿入するものを販売すれば、自己満足としても看過はされていたと思う。

今回の騒動について、津田氏と親交が深く、アドバイザーとして企画にかかわった

哲学者の東浩紀氏の見解が以下にのせられている。

東浩紀 あいちトリエンナーレの件について謝罪

芸術は、人が作るものであり、少なからず意図や感情が含まれているものだ。そして、それを受け止める相手も人になるので、感情や状況の一つで、作品の内容が曲解されることもあるだろう。

津田氏は、作品が公開禁止になってしまった背景をしっているはずだし、それを構成する立場にあったわけだ。

情報を武器として生業としたジャーナリストとして、今回の予見はやや拙速すぎたと言わざるを得ない。

どのような作品でも受け入れることが「国家としての成熟」と主張する人もいるのだが、展示会というのは、国外の観光客が訪れる場でもある。

我々が観光客出会ったときも仮定すると、他国が自分の国を否定する作品を並べる展示会にいきたいかどうか?・・・

日韓の緊迫した関係のみならず、海外へのプロモーションを考えると、東京五輪を控えているので、日経平均株価の下落なんてなんのその・・・といった力強い日本らしさのある芸術を見せつけてほしかった。

事実、京都市民として、非常に熱い夏であるが、金閣寺近辺のバス停は外国人客でにぎわっている現状を見ると、よりその主張は強まっている。

表現の自由は守られるべきだが、表現する人間が持っている意図によっては、表現を受ける側、見る側の気分を害してしまうという側面もセットで考えての自由ではないだろうか?

僕のような末端ブロガーでも、その点を考えさせられることはたくさんある。