小説 仮面ライダークウガ 中途半端にかかわらずに生まれた小説

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平成仮面ライダーは担当脚本家を中心にノベライズが盛んに行われている。一期のみならず二期でも。
そしてこのノベライズは単なるパラレルワールドではなく本編の後日談だったり、本編で説明不足だった描写の補足だったり。好きな平成ライダーを語るうえでは時に劇場版以上に重要な意味を持つアイテムだ。

とりわけ、仮面ライダークウガは劇場版の計画がとん挫し、本放送で綺麗に終わっている。劇場版による付け足しや補足がないからこそ、49話で完成された美しい神話として語り継がれているわけだが、13年の時を経てメインライターを担当した荒川氏の手によって後日談が描かれることになった。

今回はこの小説をドラマ版と比較しつつ考察していきたいと思う。

新グロンギ

ドラマ版で登場したグロンギとは別の遺跡から解放されたグロンギたちが13年後の劇中の世界で大量殺戮を計画している。

便宜上、彼らを新グロンギと名付けるが、彼らは旧グロンギと異なり、現代のリントになじみ、彼らの欲望、果ては殺意までも利用している。
五代がみんなの笑顔のために戦っていたことと対照的に新グロンギはみんなの笑顔を利用している。

そして彼らは商売人、アイドル、政治家と現代社会に根付きながら、人々を特定の場所に集め、人が他人に共感を求めていることを理解して効率よく大量殺戮を行おうとする。

旧グロンギは効率とはおおよそ離れた、独自の拘りをもってまるで人を狩猟するようにゲゲルにいそしむ。終盤ではダグバとの決戦をかけたザギバスゲゲル、そしてゲゲルに失敗すると爆死してしまうという枷が設けられたことに気づく。

新グロンギにはゲゲルの向こうにある目的や拘りというものを一切感じさせない。狩猟による殺戮というよりは快楽による殺戮という方向性を色濃く感じさせるのだ。

これはこの十年間で、成果主義が称賛される価値観へシフトした現代人への皮肉や、殺人事件の中にはサイコパスと呼ばれる殺人そのものが手段ではなく目的であるというケースが取り上げられたことに対する荒川氏なりの解答なのかもしれない。

思想や価値観の異なる民族同士の争いというシンプルなテーマがクウガの良さでもあり、人を殺すことに喜びや画策を行う新グロンギには多少の違和感を禁じ得ないが、もともとグロンギが「本当に悪い人間が出てきたときどのように対処するか?」というシュミュレーションをもとに設定されている(そのため、ふんどしや髭など人を連想させる部位をグロンギのデザインではちりばめられている)ので、これは元の設定どおりといえなくもない。

一条のけじめ

作中で五代はカムバックするが、彼が登場するシーンはラストのほんの一瞬だ。作中の大半は一条と新しく彼の部下として入ってきた夏目実加のバディ捜査が展開される。

この小説は一条が主役として描かれていることがすぐに理解できる。

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人々の笑顔を守ることはできたが、五代の笑顔は守ることができなかった。彼をグロンギとの闘いに巻き込んでしまった責任へのけじめ。

この小説は本編でありながら、一条の外伝的な位置づけである。ゴア、性的描写を多少含みつつ、テレビドラマのように戦闘描写をノルマ的に挿入する義務もないため、ひたすら一条が五代の不在に葛藤しながらも、彼の存在を押し殺して捜査にまい進する精神面を描き続けている。

これは最近の主人公が死んだ話ですぐに生き返ってしまう、生や人の不在を軽視している最近の平成二期へのカウンター的な意味合いを持っているような気もしなくない。

13年後のクウガという同窓会のような懐かしさと期待を含むサービスを披露しつつ、クウガ以後の平成ライダーに敬意を示すように人の悩みをしっかりと描き、怪人の作為を顕わにするスタイルなどドラマ版とは違った趣を持ちながらも、テレビドラマ以後をつなぐ重要なピースであることには間違いない。

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