絶叫 ネタバレ全開の考察 自立を欲しがる主観をどうしても捨てたいのだが…

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絶叫絶叫
(2014/10/16)
葉真中 顕

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※注意
この記事は絶叫のネタバレ全開で話を進めます。ネタバレなしのレビューも用意していますが、ネタバレになってもいいという方、または読後の上で読まれる方は続きをお読みください。

絶叫は鈴木陽子と呼ばれる普遍的な氏名を持つ一人の女性の半生を描いた作品だ。

自由と自立という名の呪い

1970年代に生まれ、社会おいて今以上に男尊女卑が激しい時代。母からは弟・純と比較され不条理な幼少期を過ごし、高校を出てもうだつのあがらない地元の企業でお茶くみ。一見すれば平凡な日々も父の蒸発+借金で地に落ちる。

あなたはまだ気づいていなかった。
歌やドラマの世界のように「夢か現実か」なんて単純な二者択一など存在しないということに。夢をあきらめたからといって、安定した現実が手に入る保証など、どこにもないのだということに。「地に足をつける」と思ったところで、その地面の中身がぼろぼろなら、ちょっとした拍子で崩れてしまうということに。(p95)

あなたの手取り十二万の給料だけで家賃を支払って生活するのはかなり厳しい。あなたは今更ながら、自分のもらっている給料が「実家暮らしの娘さん」を前提にしているものだということに気づかされた。(p135)

非正規でフルタイムで働くと社会保障や所得税、年金なども落とされるとおよそ12~14万を行き来する。ボーナスなどはほぼないため、年収は二百万に満たない。いざ働いて手にした給料を使ってみると「あぁ家賃+光熱費+水道代+食費だけで給料がなくなってしまいそうだな」という無収入以上に一人暮らしが難しいような観念になってしまう。この二つ目の引用は胸に刺さる。

そして、そこに本作のテーマの一つである「自由と自立」が関与する。ワーキングプアで一日中働いても自分一人がようやく食べていけるような時代。だからこそ現代人は昔以上に家庭を持つことや高い収入を得ること、自分ひとりに由る生き方、自由と自立に対して強い憧れをもつようになる。
だが、「無料ほど高いものはない」という言葉があるように「自由ほど責任のあることはない」という言葉も本作を読むと感じてしまう。

栗原はテーブルに置かれたチラシを指さして、笑みを湛えたまま力強く言った。「保険の仕事は、女性が自立して生きていくための仕事なんですよ」
自立、という言葉が熱を帯びて耳に残った。
誰にも頼らず、独りでも生きていけるだけの術を身につけること。自分で自分の居場所をつくること。それこそ、あなたが自分に必要だと思っているものだった。(p183)

保険事務員という荘厳な言葉に踊らされたが、実際は保険会社が推す商品を当たり構わずセールスして契約をとり、その契約に応じて給料をもらう個人営業。ここで陽子は知り合いに当たり構わず勧誘し、月50万という収入に酔いしれ、その生活を維持しようと度重なる自爆と枕営業に入り込んでいく。

お金を使うことで選んだ生活や経験が、お金を使った自分を変えてゆく。お金は、自分を選ぶための道具だ。お金さえあれば、どんな人間に生まれてくるかすら選べない不自由なこの世界に抗い、より好ましい自分を選んで生きていくことができる(p248)

不安を慰めてくれるのは、お金を使ったときに一瞬だけ訪れる、特別な自分を選べたという満足感だけだった。あなたはいつの間にか、平凡であることに耐えられなくなっていた。子どものころから三〇年以上も、この平凡な自分と付き合ってきたはずなのに。
新しい靴が欲しい、新しい服が欲しい、新しいアクセサリーが欲しい、新しい髪型にしたい、新しい自分になりたい。もっともっと自分にフィットした特別なもので自分の周りを満たして、もっともっと特別な自分を選びたい。
もっと欲しい。もっと欲しい、もっと欲しい。(p293)

今までの倍以上の収入を稼いだ反動でお金を使うことが楽しくなったというありきたりな末路に見えるが、人との縁が少なく働くことのみが外界との接点という人にはよくわかる話だ。人を差別せず、等しく価値のある金銭。使用する側はお客様として特別に扱われる日常だがある種非日常体験。

陽子はその後、母と再会し生活保護が必要なほど困窮していたが、仕送りすることを宣言したり、風俗で働くことになってシングルマザーの同業者に対して「子どもの為に身体を売るなら立派だ」と妬みに似た羨望を持つ。その反動か、ホストにはまり指名したホストと同棲しヒモにされていく。

その根底には「母の面倒をしっかりみている自立した女性」「家族の為に働く自立した女性」といずれも自立へのこだわりが伺える。

陽子だけではない、陽子が主犯の事件を捜査する綾乃という中年の女性警官も寿退社し、子どもを産むが子どもをしっかり育てなければというプレッシャーによって自分自身で自分を潰してしまう。
本作における最大の被害者といえるホームレスも、生活保護を受けることのみっともなさ(自立への拘り)があって拒否するが、貧困ビジネスが目的であるNPOに目を付けられ、粗悪な生活場所に押し込められ、都合よく仕事を任され保険金殺人の一端を担い、自身も犠牲になってしまう。

人間という自然現象、その本質は自由だ。何をしてもいいし、何をしなくてもいい。善悪優劣因果のすべては、その上に貼り付けた無意味なラベルに過ぎない。(中略)
「私はあきらめない。私は、戦う。自由だから、戦う。自由だから、生きる」(p468)

この陽子の変遷自体は他人の人生を潰しても自分が生きることが重要であるという自らの妄想を暴走させたモラルの崩壊だ。ここからホームレスを使って法の網を巧みにかいくぐった保険金殺人を立て続けに起こし、最後に計画に加担したNPO法人代表を殺害して大金をせしめる。その大金を活用するため、自らの人生にピリオドを打つために替え玉を用意し、自殺に見せた殺人とDNAを持つ母を絞殺したのだ。

整形し、戸籍も変わり別人になった陽子は明言されていないが、読み返してみると簡単に分かる。父の借金で売り払った自分の元住まいに戻って、土地を買い戻して誰でもくつろげる居場所をコンセプトにしたカフェを独りで切り盛りしている。

自分を縛り続けた男を返り討ちにした…
自分を絶望に追い込んだ仕事を利用して大金を稼いだ…
自分の居場所をひたすら奪い取っていった社会に抵抗するように自分だけの居場所を誇示した…

陽子が自由になる過程には身体を売る、殺しに加担する、自ら次々と殺人を犯すという非人道的な行為へとステップアップするにも関わらず、自由になっていく彼女の姿は気持ち良いという感情を抱いてしまう

しかし、この心の隙間に通り過ぎる違和感はなんだろうか?

交換不可能な主観

ある評論家が放った言葉がいまでも印象に残っている。
「この世は主観という地獄と生きていく」

どれだけ金を稼いでても、身なりが変わっても私は私であるということという認識。過去のトラウマや他人からすれば過激と思われるような思想はそう簡単に変えることはできない、いや変えられない。

その真理を如実に説明したのがこの絶叫という作品だと解釈している。

陽子は別人になり、潤沢な資金でカフェを経営している。社会的に死に、別人となっているが本作を読み終えた人なら誰しもが思うだろう「鈴木陽子は鈴木陽子だよね」と。

前回、陽子のパートで陽子を「あなた」と呼称していると説眼した。これは陽子が自分の替え玉に利用した元風俗仲間を殺した際「あなたは陽子よ」と心の中で念じることで自分を捨てようとする儀式である。

しかし、捨てようとしている儀式そのものが鈴木陽子を鈴木陽子たらしめている。過去母から受けた傷、社会から拒絶され身体を売ってきた出口のない人生。これだけ克明に自分の人生を語るのである。いくら身分を偽ったところで鈴木陽子としての人生を丸ごと偽れるなんてことは絶対に不可能だ。

そして、彼女は売りさばかれたマイホームの跡地をにカフェを作った。わざわざ地元、しかも自分の元住まいで。

両親が失ったものを自分ひとりで取り戻すという両親を乗り越えた優越感に満ちている。これは見た目、戸籍だけでなく不幸な人生をおくってきた鈴木陽子から幸せな人生をおくる鈴木陽子への刷新をはかっているように映る。

あるドキュメンタリーでこんな一幕があった。

10歳ごろ親から性的虐待を受けた女性が母になり、娘を産み独りで育てることになった。
娘はすくすくと育ち、母に守られた幸福な生活を送ってきた。
しかし、母は娘が幸せに育てば育つほど胸が痛む。
「なぜ自分は10歳のころレイプされたのに、この子は守られているのだろう…」

虐待を受けた子どもが親となり家族を形成することは、そのまま家族関係に失敗、傷を負ったことへの修復作業である。しかしその修復に拘れば拘るほど自分が受けた傷に対する反動であることがより顕在化される。

別のバラエティで毎日のように大金と時間をかけて美容整形する男性が取り上げられ、幼少期に容姿が原因でいじめを受けたことをきっかけに見返すためだけに励んでいる。そんなエピソードを聴くと彼が整形や美容に打ち込めば打ち込むほどいじめの反動である事実がより肥大化していく。

つまり、鈴木陽子という姓名を完全に捨て去ったように見えるが、彼女が起こした行動は鈴木陽子としての人生をより良い者に刷新しようとするもので、そこに励めば励むほど彼女は鈴木陽子であることを認めるしかない。

どれだけ自分の人生から離れようとしても、自分の過去や主観からは一生切り離されることはない。

陽子が陽子として結局生きていく末路にこの世から決して逃げだせないような絶望にとらわ絶叫するか、それでも人は生きていかなければならないと奮い立って絶叫するかは読み手にゆだねられる。

私達は結局、自分という過去、主観を交換したくても、捨てたくてもそれができない。だが、その主観や過去が今の私達の人生に適度なスパイスを与えてくれているのかもしれない。だからこそ一見すれば平凡にみえる鈴木陽子の前半の人生でも私達は喜怒哀楽を読み取ることができる。この作品にのめり込むことができるのは切り離したかった主観や過去が敏感に共感するポイントを察知してくれるからではないだろうか?