戸塚ヨットスクール×アベマTVの教育と体罰 後半

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さて、戸塚校長VSアベマTV。

第2ラウンドは、戸塚校長と対極にいる、リベラルで体罰=暴力の夜回り先生の水谷氏を招集。

テーマを

教育において、体罰は必要であるか?

に焦点をあてて議論されました。

前半同様に主に戸塚氏の発言をピックアップしながら、感想を突っ込みたいと思います。

3月いっぱいまでは視聴可能

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体罰はしつけのショートカットなのか?

恐怖になれる、恐怖に慣れないと進歩しない
甘やかされると、恐怖の前に固まっちゃう
恐怖をどう克服するか

体罰をすれば、あっという間に終わることを
長い時間かけてやらなあかん

子供はつらい思いを続ける損
親は金を払い続ける損
誰の得にもならん

現在の戸塚ヨットスクールは、警察にマークされており、叱ることを中心に教育されています。オカリナ実習や、2時間に及ぶウインドサーフィンは継続しています。

戸塚氏の方針として、ウインドサーフィンで転覆しても助けず、恐怖に立ち向かう力を養い、正すべきことがあれば、体罰で矯正するのではく、どなることを駆使しているとのこと。

現在、この方針が成立しているのは入居者が少ないからであり、体罰はしつけのショートカットとしてとらえているように、「体罰は便利なもの」という認識が少なからずあったのでは?と考えられます。

社会に生きやすくなるが、自主性は見いだせるのか?

(戸塚氏)

しつけにも教育にも体罰が必要

教育に体罰が必要かに絞っての議論

体罰と暴力の違い

体罰は教育のために行く

暴力は自分の利益のためにやる

善悪を知ることが大事

(水谷氏)
妻→夫 DV
親→子 虐待

どれも暴力傷害

傲慢な思想
憲法で、体罰が存在するのがいけない

(戸塚氏)

権利、権利言うとるけど意味はしっとる?
(水谷氏が子供たちに権利があると主張することを受けて)

あれは、江戸末期にできたんだ

ライトは権利じゃない。福沢諭吉が反論

福沢諭吉はライトを

通義

義に通ずると権利は一緒にできる?

「体罰は教師が持っている権利ですか?」(コメンテーター)

昔からずっとやってきとるからね

(水谷氏)

怒られるから、叩かれるからやらないは教育じゃない

さわいで人に迷惑をかけたり、授業がすすまないからやらない

それを知らないと社会に出て、怒られる、叩かれるからやらない人間しかできない。

通義と「昔からやっとるからね」は義に通ずるのでしょうか・・・

僕も中学高校は一貫の男子校で、生活指導からの体罰というのは確かにありました。

実際にビンタされた生徒も致し、げんこつされたこともあるし、正座をずっとしたこともありました。

それを受けると、確かに学校という小社会のルールで生きやすくはなります。

一方で、水谷氏もいわれるように、暴力やしつけにおびえる生き方がメインになる恐れもあります。

しかりますよ。

悪いことを悪いという
どいうしてもいうこときかんと、どなりつける

「それで子供たちは立派になるんですか?」(コメンテーター)

ふふ、なるんじゃない

「体罰なくてもなるんですか?」(コメンテーター)

時間がかかってしょうがないやろ

寄り添うには教員の教員のかずがたらん

この発言に、3年間教壇にたっていた乙武氏が

「時間がかかってもしかることで立派になるならもう答えはでているようなきがしますが」

と・・・

話がかなりそれますが、水谷氏とはかなりバトルをされていましたが、乙武氏が話しているときはずーっと黙っていた戸塚氏が印象的でした。

進歩のメカニズムわかっとる?

本人が進歩する能力が必要

進歩は価値があがる

知育 論理的思考力をつける

課題をあたえてやれやれという、やらざるをえない状況を作る
思考というのは、行動なんだよ。精神的な行動
体罰は進歩を促す行為
進歩した時に自分の頭の中をのぞいてごらん
精神がどいういふうに動いていって、進歩という結果になったか

はじめてのことは驚愕する。驚愕は行動を変えろということ
行動を変えるということ
そのとき恐怖生まれる

恐怖は安定か逃避

逃避したら進歩無し

恐怖を安定にすることが進歩

自由に生きる権利があるなら、自由に生きる力をつくってやらなあかん。

強くなること

力があること
技術力
学力
財力

力があることは正しい

本人が悪いということにしておかないとどうやってなおせるんだ?

学びてときにこれを習う

学んだことを繰り返しやることで、身につく。これを進歩という
精神的にはそのための理性ができている

教育の基本方針として、独りで生きていける力を養うという方向性そのものは、同意できます。

強制することが矯正につながるか?

これも一つのテーマだと思います。僕の知り合いに不登校経験が長いながらも、自治体の支援を受けて職を探したり、体験している人もいますし

小学生の時に理不尽な体罰を受けて、一定期間不登校状態だったけど、その後は大学をでて、新卒内定を受けた子もいます。

一方で、僕はいじめられながらも学校を通いきりました。心は荒み、どのように人を傷つけようかだけを考えている時期もあります。(今もそんな暗黒期がふと訪れます)

教育の義務や、学校に行かなければならないという外圧によって、多少の理不尽に対して、セルフコントールができるようになりました。

これがある意味、「恐怖を安定させること」なんでしょうね。

ただし、「論理的思考」あるかどうかは議論の余地があります。単に根性論ともいえますが。

暴力やいじめといった理不尽な外圧を乗り越えることが自立。というのは僕もちょっとした経験があって、現在に至るのでわからないでもないです。

でも、それが全くもって万人に通用するとも思っていません。

体罰世代と非体罰世代

私も体罰世代

体罰した先生にありがとうございますといえた心から。

体罰を受けた時に進歩できる実感があるから

心理学なんてなんにもできないじゃない

どうしてこんなにニートがでるの?

ものすごいええひとたちや(水谷氏に指さして)
だから教育がダメになったんや

きれいごとは絶対悪や
うまくいかない

おそらく、現代の子供が体罰を受けた時に

「体罰=禁止」

と認識するので、自主性や自立心がそれだけで芽生えるかというとクエスチョンですね。

テーマがいろんな方向に今回も言ったので、まとめるのは難しいですが、講演会でもないのに合計80分ほど濃厚な議論がされたのは、ネットのアベマTVという舞台だったからかなと思います。

ただ、ウーマン村本氏よりも小松アナだったら、別のアプローチを提示できたかもしれませんね。

戸塚氏、水谷氏、スタジオのコメンテーターの一部も相手の言葉尻を捕らえることに終始していた場面もあったので。

僕も水谷氏とおおむね意見は同意です。

体罰といっても根源は力を相手に行使することです。それが無言であれば、受け手はなぜ行使した人間が、力を加えたのかを考える必要があります。

それが、理解できて伝わったなら、体罰として成立するかもしれませんが、単に行為に対しての体罰は、抑止の効果しかないと思います。

そして、何度も繰り返されるように

「僕も体罰世代でよいと思ったから、下の世代にも同じことをしたい」

これが根底にあるんでしょうね。だからこそ石原慎太郎元都知事や伊東四朗氏などが戸塚ヨットスクールの支援者になっていたんでしょうね。

100歩譲って体罰を行ったとしても、体罰を起こした人間が何かしらのフォローアップ。受けた側が、体罰の意図を理解できなかった場合に諭せる別の手段を用いてるか?

これがあるかないかで、単なる暴力かしつけの線引きだと思われます。

戸塚ヨットスクールの方針を1から100全てを見ているわけでもないので、肯定も批判もできないわけですが、体罰の前後にどのような行動を起こしたかを分析しない限り、体罰は必要であるかの是非は問えないのです。

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