仮面ライダー555 考察 草加雅人が帰る場所

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前回はオルフェノクを中心に考察したが、今回は555きっての人気キャラで今もなお、俳優の村上幸平による913祭などでファンの記憶に焼き付いて離れない魅力を持つ草加雅人について語る。ちなみにここで語る草加雅人はTV版が軸だ。パラダイスロストも小説版も除外する。

巧と表裏の草加雅人

草加雅人は大学生として巧みたちの前に登場する。ここで彼は様々なクラブ・サークルを梯子しながら卓越した運動神経を見せつけている。口では「自分の可能性を試してみたい」と言いながらも、その実自分の根城となる場所をみつけられていない優柔不断さや周りから必要とされたいという激しい承認欲求を抱えているようにも見える。

そんな草加が呪いのベルトとして恐れられたカイザの適合者として巧以上に慣れた戦いぶりでオルフェノクを圧倒する。

流星塾、真理と啓太郎は草加を信頼する。しかし、巧だけは快く思わない。なぜか?草加と共闘すればオルフェノク戸の戦闘は格段に楽になるはずなのに…

それは草加が登場するまでの軌跡を追っていけば分かる。巧はオルフェノクである自分が人と深くかかわることでいつオルフェノクとしての暴力本能に目覚めるか分からないという恐怖からあえてぶっきらぼうでストレートに抉っていく物言いで他者を突き放す。誰かと深くなろうとすると怯えてしまう。

しかし、死ぬかもしれない吊り橋状態を共にし続けた真理との信頼関係、まだあって間もないのに「たっくん」とくだけたあだ名で呼んできて、バイトの手伝いという条件付きだが家に泊めてくれた啓太郎との関係を失いたくない。オルフェノクとしての乾巧を受け入れられるまでの30話後半まで巧は常に関係に断絶におびえ続け、おびえるくらいなら自分から逃げればいいという考えをもって行動している。

そんな彼が啓太郎と真理の居場所に居続けられるのは「自分がファイズとしてオルフェノクと戦い人間を守る」という大義名分があるからだと考えている。事実、ファイズに適合できなければ真理とは出会えず、啓太郎はファイズとして人を守る巧の良心を信頼している。

草加の名セリフの一つに「俺を好きにならない奴は邪魔なんだよ」とあるが、その前後に「ずっとここにいたいんだよ。君の代わりにね」とある。草加は巧が自分より劣っていてファイズとして戦わなければ存在できない恐怖を抱くことも見抜いている。だがそれは、草加も同じでカイザとして戦い続けることが自身の存在意義だと確信している。

物語が進むにつれ、オルフェノクだった巧が今まで以上に受け入れられ、ファイズではなく乾巧そのものが受容されるようになる。ブラスターフォームという一人で最強といわれたドラゴンオルフェノクを圧倒する力も身に付けた。

こうなっては草加の物語上の役割は消える。オルフェノクのように灰になって。

そういった関係性を実によく表現しているのがクリーニング店内での立ち位置だ。
草加登場時はアイロンがけを器用にこなし、配達も真理とともにバンをつかって行っていた。しかし巧オルフェノク発覚時は彼は菊池クリーニング内での草加雅人ではなく流星塾の草加雅人を選択した(後述)。そのためクリーニング描写は消失し、巧復帰後は、外でバンの洗浄、そして最期は自分のバイクを離れた位置で洗浄している。草加の居場所は肉体的にも精神的にも失われた瞬間だ。彼は単にオルフェノクを愚痴るだけの存在なのだ

オルフェノクは必ず死を迎える。木場は王を道連れにすることを示して死に、巧もおそらく仲間に見守られるのではないかと推察される。一方で草加の死は平成ライダーの中でも屈指のメッセージだらけの濃い場面となっている。

・一番嫌いな木場に一番拠り所としていたカイザで殺される
・ヒーローとして死ぬことを決意したが直接の死因はカイザによる首おりだったこと
・灰になって死んだことでそばにいた真理に全く見つけてもらえなかったこと
・井上ワープが発動されなかったこと(余分)

特に直接死ぬ瞬間を誰にも見られていない(強いて言えば木場)のは不幸だ。あれだけ大量虐殺をかました澤田でさえも愛した真理のそばで死ぬことができた。

皮肉にも中盤以降、巧や木場を孤立させようと画策していたが彼自身が孤立してしまった形となり死を迎える。

帰る場所を見つけるための戦い

555は平成ライダーにおいても屈指の名セリフのデパートだと認識しているが、その中でも筆者が好きなセリフは34話で草加がデルタに変身したがらない三原を奮起させるために飛ばした檄。

「俺たちに帰る家なんてない。帰る場所をみつけるために俺たちは戦わなければならないんだ!!」

この前後は三本のベルトを掌握しデルタとしても戦ったり、生き残った流星塾生をリーダーシップを発揮し導くなど草加がヒーローしている活き活きとしたシーンが続く。

「帰る場所」は当然ながら衣食住のための「バイトがあるから帰っていいかな」の住処ではない。二つの意味が込められている。

一つはコミュニティである。555という物語は

①菊池クリーニング
②流星塾
③ラッキークローバー
④無殺傷オルフェノク

大きく分けて4つのコミュニティに分かれ、もし草加が流星塾に入ればちょうど男性二人、女性一人の均一のコミュニティになっている。我々は普段こうした抽象的である一つの目的のために集まるようなコミュニティに居場所を置いている。コミュニティを築くこともまた帰る場所を作ることに繋がり、三原は最終的にこの道を歩もうとしている。

だが、草加は流星塾ではなく真理という個人にも居場所を求めた。これが二つ目の帰る場所だ。

流星塾の絆の強さは全員が両親を事故などで失ったという共通体験にある。親は自分の遺伝子や思想を残すためにも子どもを産み継がせるわけだが、子どもからしてみても自分の生育歴を親に委ねている。草加はしきりに真理にたいして「俺を見ていてほしい」とアプローチする。いじめられた卑屈な過去も含めて知っている真理は生育歴を認識していると親代わりなのだから母親になってくれるかもしれない、救ってくれるかもしれない存在である。

子どもの頃の写真をずっと身近に携帯していたことから草加は青年期から真理を半ばストーキングしつづけ、彼女のあらゆる側面をみていたから「君には俺が必要なんだ。俺が君を必要なように」という言葉を恥ずかしげもなくぶつけられたのだろう。

ただ真理が自分にさほど感心のないことや、それに比例するように真理への関心が以前ほど激しくなくなったためか、彼は従来通り、自らのいた唯一のコミュニティを破壊したオルフェノクへの復讐を誓うことになる。

草加にとって望むべき展開だったかどうかは分からないが、真理は草加を忘れないように記憶に留めようとし、三原は人生の師とすら意識している。草加は必死に自分を印象付けようとあらゆる毒を撒き続けたが、彼の死後は単に「有能で惜しい人を亡くした」という評価になっているところが皮肉というかなんというか…というところだ。

居場所を他人に求めなかった男 海堂直也

コミュニティに拘り、個人に拘る人間が多く描かれる555の中でおそらく最も多くのキャラクターとつるんだのが海堂直也だ。海堂直也は「クラシックギタリストとしての自分」という拠り所を早々に失い、半ば浮浪者のように街をさまよいとっかえひっかえしながらコミュニティを移り変わっている。

厳密にいえば無殺傷オルフェノクに組しているが、木場と長田のように人を殺したうえで殺さないでおこうという反省がないため、コミュニティに対する責任感もあまりない。

海堂直也はコミュニティそのものが代替可能で常に移り変わっていくものだということを実践している。そういうことを詳しく表現した漫画がずっと前に記事にも書いた古谷実のシガテラという漫画にある。

 

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古谷 実

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自分が所属しているコミュニティだけが自分の存在を把握し、受容としてくれるという考え方は不自由な生き方を強いる。そのコミュニティがなくなれば自分の精神の支柱はなくなる。また誰しもが自分のホームベースとなる家族や恋人を確保できるわけではないので、そうなれば自分という個を受け入れるか、居場所を多く作って流動させるという手段をとることが好ましいというように草加と海堂を対比することで考えることができる。

555をエンターテイメントとして観賞するなら「ベルト争奪戦」だが草加雅人を通して観ると「居場所争奪戦」として楽しめる。受け入れてくれるコミュニティをひたすら求め続けてそれが成就した巧と、コミュニティでは飽き足らず個人に存在を委ねようとする(すなわち恋愛)草加の話が重層的に織りなしている

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