タクシードライバー 2018年現時点でのレビュー あらゆる報われなさを自覚して

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マーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロの代表作であるタクシードライバー。私も主人公のトラヴィスよりすでに老けてしまった。

学生時代、私はこの映画を10回近く、各セリフをワードで書き起こすぐらい夢中になった。その時は学内生活で孤独だった自分とトラヴィスを単にダブらせただけだったかもしれない。表層的な共感。それはトラヴィスがもっとも嫌悪する概念だったのではないだろうか。

あれから10年近く過ぎ、私の人生はさらに落ちぶれたものになっている。そんな環境と心境でこの映画と向き合うとどのような感情が芽生えるのか。

アメリカンニューシネマ、いや歴史ある映画史の中でも屈指の名作である本作を批評ではなくありのままの感想を書きなぐっていこうと思う。

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(社会への憤懣、自分の人生に対するやるせない悲しい目、他者への敵意。この視線だけでもトラヴィスの心情をあらゆる角度で語れる)

トラヴィス・ヴィックルにとってのタクシードライバー

タイトルにあるタクシードライバーは非常にストレートな題名で、中身は仕事以外のあらゆる人生における鬱屈を表現しているからかすんでいるが、やはりこの映画はタクシードライバーという職業をスタートに考えるべき作品だと思う。

全体を貫くテーマである孤独に対して、タクシードライバーという職業は客とドライバーが常に前をむいた平行線のコミュニケーションと鏡を通した会話というつながりを遮断された空間であることでより迫真さを生み出している。

主人公のトラヴィスはベトナム戦争帰還兵で都会で一人暮らしをするにあたってタクシードライバーを週6~7日勤務で常勤する。

この映画でよく指摘されるトラヴィスの豹変のきっかけは選挙事務所で一目ぼれしたベッツィの唯一の娯楽であるポルノ映画を見せて拒絶反応を起こしたこと、暴力とセックスの絶えない夜の都会で逃れようのない孤独を感じ、自己愛で他者への攻撃的な感情を育んでしまったこととされる。

しかしながらこの話は5月~7月というたった2か月間で起こった出来事であり、都会での生活の大半はタクシードライバーとして過ごしている。

トラヴィスの精神を犯したのはタクシードライバーとしての報われなさにあるのではないかといま思う。

前半のトラヴィスの行動の核となるのは

・タクシードライバーとして働く(社会的地位)
・彼女を作る(人間的地位)

仕事での自己実現と人間関係での自己実現。そのわかりやすい形が就職と恋愛。これは現代でもスタンダードな社会問題であり、この映画が今なお現代人の心を揺さぶる要因であると感じる。

トラヴィスは差別主義者としての一面を持っている。

劇中ではたびたび、トラヴィスが黒人と目を合わせたり、いもしない成金の黒人におびえる描写がある。さらに冒頭では暴言を吐き捨てる黒人や街中を練り歩く売春婦ばかりに目を向ける。

彼はそれを「掃きだめ」や「ゴミ」と一蹴するが、人に話すときは愉快そうに話す。それはタクシードライバーとして定職についている自分の方が人としてマシな存在だという自負があったからだろう。

「俺はブラックな職場だが正社員として働いているだけマシ」
「俺はフリーターだがニートになるぐらいなら今の状態が一番いい」

こういうルサンチマンな考えも時に本人の心を癒す。

これは私の勝手な想像だが、ベッツィと付き合うことや昼の都会を目にし、カフェで性の話にふける同僚を目の当たりにすることで次第にトラヴィスの心の中にタクシードライバーであり続けることの不安がよぎる。

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(殺人計画を話す客の言葉を聞きながら、客が殺そうとする浮気した妻を見つめるトラヴィス。脚本家、評論家によると黙って聞いているだけのトラヴィスはすでにこの客と同じように他殺願望を持ち合わせている表現だという。私の中ではトラヴィスは「自分が社会の最底辺にいると自覚した瞬間」と考えている)

彼は20年近いベテランドライバーにその心中を打ち明ける。

「ここから抜け出して何かしたい・・・・でも何がしたいのかわからない」

誰もが抱える漠然とした不安。しかし他者にはよくわからない。

先輩は

「なるようにしかならない、とにかく女を抱け」

そう答える。26歳のトラヴィスはまだ自分は心の傷を社会的地位や家庭を持って立派に生きることで覆いかぶせると思っている。先輩からすれば「そういうことを考えると余計に自分を追い込んでしまう」という意味を込めたアドバイスになっている。

どちらの言い分も正しい……

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(先輩は懸命に「お前の言いたいことはわからないけど」と
前置きしながらできる限りのアドバイスをおくる。しかしトラヴィスの目線は道路向こうのはるか彼方。20代の自分は何者かになれる、社会的に何かを果たせるという希望が彼の現状をさらに絶望的なものにする)

日銭を稼ぎ、同僚とたわいもない話をし、何の生産性もない娯楽で時間をつぶす。それは、ベトナム帰還兵として心の傷を負った自分をいやすだけの十分な証明にはならない。

後半、その心の穴を埋めるように

「タクシードライバーは表の顔で裏は政府の仕事をやっている」

と売春婦のアイリスに告げる。最終的に大統領を暗殺することもポン引きを虐殺することも彼にとっては=でタクシードライバーだけでは報われない社会的地位の代償行為だったのだろう。

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(序盤、タクシードライバーの仲間たちの横に座り食事を共にする。ここでは仲間とトラヴィスが同じカットの中に入っている)

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(次のシーン、トラヴィスは先輩に心の悩みを打ち明けようと考えるが、同時に「こいつらと同じで自分はいいのか?」という激しい同族嫌悪にも陥っている。彼は避けるように端っこに座りそっけない応答をする。このシーンではドライバー仲間とトラヴィスが前回のように同じカットにおさまっていない)

実はトラヴィスはもっと閉鎖的な職場で働いていればこのようなジレンマに悩まされることがなかったのかもしれない。

意外にも彼の心をより深くしたのはテレビなのだ。テレビで流行の音楽にのせて陽気に踊る黒人たち。いやでもテレビは他者という比較対象を映してしまい、自分の惨めな現実を映し鏡のように見せつけてしまう。

そして、現代はネットというさらに他者と自分の関係を白日の下にさらすある種、暴力的なメディアが存在している。

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(たとえ引きこもっていたとしても自分とは違う価値観を持つ人々が映し出されるメディアにさらされ続けている。あらゆる価値観、あらゆる生き方を目の当たりにされることが疎外感を生み、対象者の孤独をより強固なものにしてしまう)

トラヴィスが過去のトラウマから報われないと自覚し、その代償行為として社会的地位を求める限り、ラストでタクシードライバーとして働き続ける彼の心は未だ癒されることはない。

「明日のために今を生きる」という素敵なスローガンを抱えて生きる人もいる。しかし同時に人は「過去を作り続けて生きる」生物でもある。復讐やトラウマのように過去の傷を精算するために生きる人もいるだろう。

本作で卑近な例を挙げるとベッツィに嫌われたトラヴィスが信頼を回復しようと大量の花を彼女の家に送るが、狂気的な量とトラヴィスに対して生理的な嫌悪感を抱いたベッツィはそのまま彼の家に花を送り返したシーンがある。

そしてトラウマを抱えた人々の多くはこの言いようもない「報われなさ」にどう折り合いをつけて生きていくか?ということが人生のテーマになる。かくいう私もこの報われんなさをどうしようかと今も書きながら考えているところだ。コレに答えはない。

学生時代のまだ人生に限りない選択肢と可能性を与えられた僕なら「そんなトラウマを捨てて新しく生きていこうよ」とトラヴィスを諭しただろう。しかし28歳になって、どんどん人生の可能性が狭まっていく自分とオーバーラップさせていくと、捨てれば楽になるのにと思うのにずっと背負い込んでしまう。

しかし同時にそういうトラウマがあるから今も生きているのかもしれない。タクシードライバーがただ自虐的で内向的な作品であるならここまで長年にわたり愛される作品にはなりえない。間違った方向でも自分の過去を報われたものにしようと必死に抗う一人の若者を描いているからこそ、他のアメリカンニューシネマと異なり、トラヴィスは生きることを許されたキャラクターかもしれない。

彼が荒廃した都会でタクシードライバーとして生き続けるということは一方で無間地獄だが、一方では報われない心を自分で救済する、妥協できるチャンスを与えられたのかもしれない。そう考えると私はこのタクシードライバーに一筋の希望を見いだせたのかもしれない。

再考 人生の瞬間を映すタクシードライバー

改めて本作をじっくりと鑑賞し、タクシードライバーは名作であると疑いの余地はなくなった。

素晴らしい映画は鑑賞者の年齢や境遇によってとらえ方が幾通りも変わっていくという。

映画というメディアは漫画やドラマ、アニメのように短時間で繰り返し1年~10年以上にわたって描写を続けることを許されていない。
続編という手法も用いられるが基本は90分~180分の間で起きた出来事をフィルムを通して伝える。

ある人物の生涯を簡潔にまとめようと思ってもそれはハイライトをコラージュしたような瞬間しか映せない。これがメディアとしての映画の限界ともいえる。

しかしながら、名作はその逆手を取って、人生に起こりうる一時期の状態、瞬間、そしてそこから生じる選択をほかのメディア以上に強調したものとして鑑賞者に伝えることができる。

タクシードライバーは選択の連続だ。ポジティブな選択ばかりではなく、彼女をポルノ映画に連れていく、拳銃を必要以上に購入する、シークレットサービスにわざとマークされるという常識では考えられない行動をする。

初回この映画を見ると必ず「馬
鹿な選択をしたな」「損したな」と思うが、歳を重ねることによってトラヴィスがなぜあり得ない行動をとったのか?彼の人生の余白を自分の人生経験で埋めようとして、彼の行動した時の思考をあらゆるコミュニケーションの体験談を引き出して重ね合わせる。

しかもそれが絶対的な答えではなく、現状自分が出せる最適解にとどまっている。これから僕の人生はトラヴィスよりも先を歩むことになる。どのようにこの映画への見方が変わっていくかが恐ろしくもあり、楽しみでもある。

そして前章のしめくくりでも語ったが、初回本作を見た時はトラヴィスの行為は正当化され、社会的評価を受けたハッピーエンドに見えた。2回目以降は結局人から評価されないタクシードライバーをつづけ、自分は何も報われない日々を送っているというバッドエンドにしか見えなくなった。人によってはホテル襲撃時にすでに絶命しており、トラヴィスの妄想だけがラスト続くという見方をする人もいる。

ここまで鑑賞者の現状を映し鏡のように見せつけてくれる映画は珍しい。しかしそれは非常に真摯なもので絶対的に幸せな回答もなければ、絶対的に不幸になる結末もない。

仮に「誰にタクシードライバーをみせたい?」と言われたら人生で今が充実して仕方がないと思っている人に見てほしい。
「見ておくべき名作をみるのって面倒くさいな~」って思いながら趣味を映画にし始めた人に見てほしい。

そして「なんだこの駄作」と大いに罵ってほしい。それから2回目もう一度見て、全く違った感想と考えを持つ自分の発見を喜びとしてほしい。

すごい上から目線で、生意気なことをいっているし、ブログで評価書きながらどの面下げていうんだ?って感覚だが、この映画はネットやツイッターなどで意見を戦わせるタイプではなく、過去と自分の評価を戦わせて、自分の今を考える教養ですらあると思う。

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