わらの犬 逃げることも闘うことも肯定しないアメリカンニューシネマ期の怪作に触れる

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俺は大学時代にサークルにも入らず、バイトもしないでひたすら映画ばかり見ていた怠惰な日々を送っていたので俺が見てきた映画、最近見た映画をブログに還元できればいいなと思い、またもや無駄にあたらしいカテゴリを作ります。

「独りで孤独に浸りたい映画感想録」

タイトルの通り、物騒な映画を一人であれこれ妄想しながら書き溜めるという自己完結型映画感想日誌どす。

さて、栄えある一回目は1971年、アメリカンニューシネマ真っ只中のサム・ペキンパーによる「わらの犬」という映画。

俺が学生時代、ジョン・ウーのスローモーションにしびれて、その原点がサム・ペキンパーにあるときき「戦争のはらわた」でストレートなドラマ性に圧倒され、代表作である「ガルシアの首」「ゲッタウェイ」でディープな男女関係に「俺も将来こんな関係性が築けるのだろうか」と無駄にワクワクし……まぁそんなことはいいか。

わらの犬もダスティン・ホフマン主演でペキンパーの代表作と言われているが、学生時代にレンタルショップでまったく見当たらず、DVDもアマゾンでは絶版で8000円ぐらいしたような気がする。というわけで

いい時代になったものだ

「フォロー・ミー」「ヤングゼネレーション」みたいに知る人ぞ知る作品が続々とセル化されるのだから。
レンタル店を掘り下げたら簡単に見つかったと思うが、興奮のままソフトを購入してやったぜ!!

アメリカンニューシネマ期の作品ということもあって、最初の1時間半はすんごい静かで、ラストの30分で怒涛の展開が押し寄せる。しかも安定のBAD(GOOD?)END。

この映画、「暴力」が一つのテーマになっている。頼りない男がDQNに嫌がらせを受けて、その鬱憤をぶちまけるという爽快感の溢れそうな話だが、実際は自己防衛せざるを得ない状況に立たされて、自己防衛のために殺しを繰り替えすうちに新たな人格や人間の本質に迫るというかなり哲学的な話にもなっている。

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(自室で引きこもってひたすら数学に没頭する夫に何のために田舎に引っ越したのかと妻が黒板にいたずらする)
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ペキンパーらしさあふれるのが暴力の中に男女の関係の修復という裏テーマを忍ばせている。関係が壊れたガルシアの首では主人公が死に、関係が修復されたゲッタウェイでは生存するというわかりやすい対比関係を描いている。このわらの犬でも夫婦のセックスレス的な関係から妻は昔の友人にレイプされ、耐えきれないトラウマかと思えば、筋骨隆々で野性的な知人にも夫と比較するような考えてしまう。

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(他人の喧嘩を隅っこでおびえるように見つめる)

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(この言いたいことがあるけど、屈強な野郎ににらまれて手を震わせながらビールを飲んで愛想笑いするダスティンホフマンの演技が神がかっている)

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(DQNの嫌がらせで猫を殺され、妻に追求しろと発破をかけられるが、逆に相手の明らかに罠である狩りの誘いにのってこの阿保面で狩りをしている最中、妻はレイプされてしまう)

主人公はアメリカの暴力的な日常に嫌気がさしてイギリスへ逃げたと妻にののしられるシーンがある。本作が唱える普遍的なメッセージとして
「いじめられっ子は自分が変わらない限り、どの社会でもいじめらっれ子として扱われる」
「一度、人生で逃げる選択肢を選ぶと逃げ続ける」

「美人と結婚しても男はマッチョな精神を獲得できるわけではない」

現代でよく聞こえるこうした説教的なメッセージを70年という時代でどストレートに問いかけてくる。

そんなこんなで「どういう着地点にいきつくの?」という鑑賞者の不安をよそに物語は急展開に。
野郎たちを取り仕切るトムじいさんの男を誘う娘が精神的に問題のあるヘンリーを誘って、トラブルによって命を落とす。町一番の暴力漢のトムの逆鱗に触れると慌てるヘンリー。霧の中を彷徨う中、車で帰宅中のデイヴィット夫妻にはねられる。デイヴィット夫妻は重症のヘンリーを自宅まで運ぶが、娘が行方不明のトムは「ヘンリーを出しやがれ」とデイヴィットの家の前で暴れまくる。仲裁にはいった知人がトムに殺され、その状況を見たデイヴィットは自分たちも殺されるかもしれないと恐怖におびえながらも5人の野郎どもを返り討ちにする。

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ここで面白いのは「誰が何をしたか?」ということをしっかり理解しているのは鑑賞者だけで、劇中の人物たちは断片的な情報しか得ていない。

・デイヴィットはヘンリーが誤ってトムの娘を殺めてしまったことを知らない
・デイヴィットの妻はレイプされたことを打ち明けていない
・トムは娘が行方不明のままで死んでいることを知らない

つまり互いが勝手に「悪者」というイメージを植え付けて、それを信じ切って殺しあっているのだ。「もっと冷静になれよ」とこの状況をおかしく突っ込むことは簡単だが、実際のいじめも陰惨な歴史の魔女狩りも都合の良い「悪者」イメージを植え付けるということは何度も繰り返されてきている。

映画というのはフィルム越しに鑑賞者が神の視点であらゆる人物関係を覗き見ることができるというのが一種の醍醐味だが、その醍醐味を利用し、暴力の原因、構図を見事に映し出した瞬間だとペキンパーの手腕に震えるばかりだ。

デイヴィットはヘンリーが何もしていない被害者であると信じ切っており、自分が彼をかばうことで野郎と立ち向かう大義名分という状況を作っている。

ここで我々は妻と同じように「ヘンリーをさっさと明け渡せば自分は穏便にすむのに」と思うだろう。しかし、デイヴィットは舐められたくないのだ。これ以上馬鹿にされたら自分のプライドが壊れてしまう。
ここは高尚な理由や動機があるわけではなく非常に感情的なシーンだからこそ理解しにくい。

無題に被害が増えるのにパシリを拒否したり、無視したりしたことはないだろうか?このいじめられっ子のささやかな矜持をこの一瞬で鮮やかに生々しく再現している。

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(さっきのアホ面の猟銃シーンとは対照的な鬼気迫る表情。顔だけで演技できるダスティンホフマンの演技を堪能するだけで楽しめる)

そこから怒涛の15禁ホームアローンが展開され、野郎どもをばったばたとなぎ倒す。よくショットガンで威嚇するホフマンが象徴のように挿入されているが、実際はヒカキボルグを手にタコ殴りにするのだ。妻が目の当たりにした惨状は平和主義な夫が躊躇なく男の顔面を火かき棒で殴打して、血だまりがそこらかしこにできている。

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(こええよホフマン)

ラストシーン、暗がりで霧が晴れた片田舎でヘンリーが「どこへ行けばいいかわからない?」と戸惑いデイヴィットは「僕もだ」と応じる。

このシーンも冒頭では田舎ライフを満喫するぞーと妻が運転して夫がはしゃぐのだが、物語が進むにつれ夫が超不慣れな手つきで運転し、ラストでは人を乗せるほど完全に運転技術をマスターする。

車を自分で運転する=自分一人で生きていくよという暗示でもあり、 ヘンリーを同乗させている時点で妻との離別を示唆している。終盤の妻とレイプした友人の目線の配りあいでレイプとまでは推察できずとも肉体関係にあるかもしれないと彼なりに確信を得たのかも。

暗さも存分に感じられるラストである一方で、煩わしい人間関係、社会的地位を捨てて単身車で逃避行するデイヴィットの姿は、夫婦関係という人間関係に割って入っていく卒業とはまた違ったカタルシスがある。

わらの犬は見ることで人生の嫌な一面をまざまざと見せつけられるタイプの作品だ。
逃げることも闘うことも最終的に答えはなく、どれも称賛していない。なぜなら一方的に逃げる人生も闘う人生も許されていないからだ。適度に避けて、適度に闘う空気を読むような面倒な人生に放り投げこまれているという悲壮感がこのわらの犬には一層漂っている。

今の現状でアメリカンニューシネマを見るのは精神衛生上よろしくないなぁ…… 

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