コンビニ人間 評価額775(ななこ) 他人にとって便利な人間にならないという自覚 

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自分は芥川賞をどうたら語れるほど本を読んではいないし、小説に関心もない。
ただ、書店でタイトルを見て思わず手に取った作品で、ネットでも辛口なアマゾンレビュワーが結構評価をつけているこのコンビニ人間を今回は紹介したいと思う。

仮想敵なき独身フリーターの今日

主人公は18歳から36歳までの18年間、一件のオフィス街にあるコンビニで働き続けフリーターのまま、恋人も作ることなく中年期を迎えた古倉という女性。

彼女は言われたことをそのまま素直に実行し(喧嘩を止めてといわれたら鈍器をもって喧嘩している両者を殴ってとめようとする) これといった自我がなく妹の言うとおりに普通の人々に擬態して世の中を生きている。
そんな古倉のよりどころが長年勤めているコンビニであり、決まったシフト、決まった仕事内容、トップダウンのわかりやすい命令体制に生きやすさを感じている。
コンビニ、いやこの世にある肉体労働の多くは利用者にとって便利であるが、雇用者にとって便利な使いやすく捨てやすい便利な労働力が酷使されているちょっとした社会風刺にもなっている。 

人手不足のコンビニでは、「可もなく不可もなく、とにかく店員として店に存在する」ということがとても喜ばれることがある。私は泉さんや菅原さんに比べると優秀な店員ではないが、無遅刻無欠勤でとにかく毎日来るということだけは誰にも負けないため、良い部品として扱われた。(p41)

世の中には誰だって一軒家を持って、子どもを作って、正社員になって「立派な」大人になれるわけではない。周りからは蔑まれているような職業でも本人にとっては天職ということだって当然ある。
……というより営業とか販売の正社員に入ったからと言ってすぐに精神的に病むケースだって多々ある。
今やっている仕事は決して自分が心からやりたい仕事ではないはずだが、しかし明日も明後日も一か月後もおそらく続けられるというよりどころがあってそこにすがっている。そんな偉大な野望も希望ももたずにただ一日を過ごしている普通の人々のための小説、それがコンビニ人間なのかもと考える。

ただ、本書で古倉の生き方にたびたび難癖をつけるように

結婚して子供がいる友人、妹が障壁のように何度も現れる。

日本でそういう普通という名の異常に対してアプローチをかける小説や映画が近年減っているからちょっと歪に見えるかもしれないが、それにしても過度なぐらい主人公は「結婚しないとだめになる」「せめてちゃんとした職につかないと」と攻撃される。

特に妹が何度も自分の子供の名前をあえてつぶやくところに作者の妬みの深淵が隠されているように私は思う。
それに古倉が同棲したと仕事仲間に知られるやいなや辞めても何の咎めもなしに祝福される。彼女が同棲を公開してから急に周りが勝手に解釈をはじめ生きやすく感じるような描写は作者の人間アレルギーがありありと伝わってくる。

でもこの周りが勝手に解釈するというのは私の人生でも経験がある。
就職活動に失敗して、社会にそっぽむいてニートを送っていたが同時に学生時代からのボランティアも継続していた。当然まわりから「今は何をしているの?」と聞かれて「求職中です」とこたえると「今は大変だからねぇ」と勝手に就職難でかわいそうな若者像を作って勝手に憐れんで、そんな憐れんでいる私たちは立派的な態度をとる。

小説とコンビニ店員という二足の草鞋を履く作者の焦りをシンクロさせているように見える。

しかしながら、近年はむしろ結婚して子どもが生まれるとともに立派な大人という烙印を押されて、なんの庇護も受けられず孤立してしまうケースの方が多数だ。母子家庭ですら「自分で子供を産んだのだから自分の責任で」というのがこの国の価値観になっている。

(母子家庭で守りたい子供が守れない今の世の中を過激に描いた作品。子どもを失い、悲痛なCOCCOの表情があまりにもガチすぎる)

結婚して子供がいて、正社員で友人に囲まれている「普通の人々」は5~10年前はリア充のような仮想敵として独身、フリーターの鬱憤晴らしとして機能していたかもしれないが、現在では自分のために働き自分のために死ぬ。自分のご褒美のために稼ぐことは是とされている。

「大手につとめて、嫁さんがいて、二人の子供がいて、持ち家の奴がいてさ~」
「はぁ?そんなやつ俺の周りにいねぇよ」

正社員になることは低賃金、精神的負荷増加。
結婚することは自分の時間を失い、家族が増えることは精神的負荷、そして財政難。本当に適正のある人だけがそういう道を選べば?
君の生き方は君の努力次第で自由だからねHAHAHAHA

というのが今の日本だ。

それに近年ではコンビニのマルチタスク化がエスカレートし、日本人の若者はコンビニバイトは日常にありふれた機械であるが、様々な仕事をこなしているのに評価されにくいバイトとしてみなされるため忌避する傾向にあり、コンビニで働けるというのが一つの生きるためのスキルにさえなりうる時代に突入している。 

「コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです。制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。世界が縄文だというなら、縄文の中でもそうです。普通の人間という皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを追い出されることも、邪魔者扱いされることもない」(p87)


(中流階級の立派な妻として演じ続けて壊れていく母と自分は異常であると自覚して修復していく息子の対比が素晴らしい作品
。人格者な父を争って母と息子がいがみあう様相が妙に生々しい)

この小説のラストはなかなか考えさせられる。

ラスト4ページそのまますべてここに書き写したかったが、さすがにネタ晴らしと本作の要旨が詰め込まれすぎているので、実際に読んでみてほしい。

人によっては古倉がコンビニ店員としての生き方、天職を見出したポジティブなラストに見える。
逆に「私はコンビニのために生きているんです」という狂気じみた主張でコンビニ店員としての生き方しかできない彼女に後ろめたい今後を想像してしまうネガティブなラストにも映る。

コンビニ店員という生き方を見つけたことを是とするか、コンビニ店員という生き方した見つけられなかったことを否とするか。

私は、古倉が周りから便利な人間として扱われてきたが、自分にとってコンビニという職場は生きる上で便利だったという持論を確信にしてそれを柱に生きていくと決断したという点でポジティブにとらえている。

おそらく本書における作者の主張の一つに「誰かにとって便利なだけの人間にはなるな」という警句が込められているように感じる。

この小説も芥川賞という便利な箔がなくても、今をいきるフリーター男女に共感された作品になっていただろう。

古倉の主張に過激さはあっても、誰もが週5日、8時間~通勤も含めて10時間ほど同じ仕事、同じ人間関係を繰り返し続けている。この日本の労働環境そのものが他国からすれば異常だし、誰だって「自分は仕事を通して生きていることを実感しているんだ」と言い聞かせないとやっていけない側面がある。

このコンビニ店員のラストは社会人として生きる私たちが、一度は味わったことのある苦悩やジレンマというのもをコンビニ店員を通して突き合わせて考えさせる。
ドキュメンタリータッチであるがどこかユーモラス、でも社会風刺も効いている。

最後にアクセス数の稼げるブログは様々な利用者にとって利便性の高いブログであることが鉄則です

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