仮面ライダー555 考察1 オルフェノクは何だったのだろうか? 理不尽な生と空虚な日常

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ようやく、ブルーレイで発売された仮面ライダー555ブルーレイBOXを観賞し、この数日間はひたすら555について考えることが多かった。

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(2014/01/10)
半田健人、芳賀優里亜 他

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(アマゾンで購入すれば三巻で合計45000円ほどの出費になる。50話ドラマにしては捨て回が少ないのが魅力的だが、10年後の現在に比べるとCG技術はまだまだ未発達で、車載映像などは明らかにボケているなどシーンごとの映像美の落差も激しい…それでも脚本は色あせることがない。)

555はそれまでライダーに倒される役割、悪・暴力の記号だけを与えられた怪物という存在に焦点を当てた作品だ。怪物にも嫉妬、怒り、涙の感情を付加させることによってキャラとしての造形を深め複数話登場させてもマンネリさせないという優れたドラマ演出がここから始まった。

555以降、猫も杓子も多くの平成ライダーは「人間になれる怪物」を描き、そういう怪物を話の中心に据えることで長期化に堪えるドラマを模索していった。だが「怪物になってしまった人間」はあまり登場しない。それにオルフェノクは人間の延長線上にある存在だ。

小説では殺人衝動がどのオルフェノクにも存在することが説明づけられていたが、本編ではどのオルフェノクも人を殺すか生かすか、愛するかの選択肢を委ねられている。

オルフェノクの数だけ個性が存在する。そんな複雑な存在を「こんな存在だ」と断言するのはおこがましいことではあるが、今回は無理やりにでも555という物語におけるオルフェノクの役割を考えてみたい。

理不尽な生に対する絶望感

私からみたオルフェノクは「理不尽な生」の象徴だ。

ファンの間でも人気の高い8話、9話の「夢の守り人」ではクラシックギターの才能を計画された事故によって奪われた海堂直也の苦悩を中心に描いている。最も印象に残ったのはたとえオルフェノクになっても事故で麻痺した手も夢を失った心の傷も海堂直也にとって修復されていない

オルフェノクを新しい人類の進化として神格化するキャラもいるが、事故で負った海堂の古傷すら癒されず、心の傷を抱えたままオルフェノクとなった人々は空虚な日常を生きる。

オルフェノクとなった人間は夢、身も蓋もない言い方をすれば生きるための動機付けを持ち合わせていない。ただ死んでたまるものですかと意地になるもの、おもしろいものを探すため毎日放浪するもの、もうこんな命いらないと身投げを考える物。あまりにも空虚な日常に対して彼らは人生を持て余している。

興味深いことに、普通の作品なら一度死んだものが生き返るという設定にするなら生き返る人間は生き返るだけの生への執着や怨念を携えている。日本特有の妖怪文化のようなものだ。しかし、オルフェノクの大半は「何としても生き返ってやる」という気概を見せているわけではない。「ここで人生は終わったのか…その死を受け入れよう→あれ、なぜか生き返っている」。あるいはそんなことを考える余裕のない者ばかりだ。

生きる気力への乏しさは井上敏樹得意の日常描写にも表れている。

クリーニングという実生活に根付き、朝食からしっかりと食事をとる菊池クリーニング一行に比べると木場、長田、海堂の三人の日常描写はあまりにもフィクションっぽい。美術館のように真っ白なマンションの一室や食事描写も希薄。周りとの接点もほとんど示されていない。

中盤以降に登場する上の上。ラッキークローバーでさえ愛犬を守るジェイ以外の三人は私生活描写が乏しく、ただバーに集まって何か物思いにふけっているように見える。

このようにオルフェノクは「怪物=人間に危害を加える」という方程式から脱却すると同時に、「ドラマのキャラ=特定の目的を担わされる」というドラマツルギーの基本すらも欠如しているから555の中盤以降はほとんど進展の見られない珍しい構成になっているように見える。

そんなオルフェノク達の救いとなっているのはスマートブレインの村上社長だ。

村上は「人類を減らし、オルフェノクの割合を増やせばいい生活を保障してやる」という動機、ストーリーをオルフェノク達に与えることによって理不尽な生の前に立ち往生する彼らを別の面で救っている。
同時に「人を殺さないと死んでもらう」という強迫を与えることで彼らの飽和した日常をよりスリリングなものにしている。

人類からすれば実に迷惑な動機付けだが、結局スマートブレインというゆりかごがなければ理不尽で空虚な日常の前に生きることをオルフェノク達は放棄するだろう。そしてスマートブレイン以外に上から公平に生きる理由を与えられた組織は作中に存在しないのだ。

理不尽な生というのは初代仮面ライダーから貫かれる共通のテーマだ。本来、脳改造されるなり死ぬことで主観の地獄から解放されたはずの人間が、別の汚点、苦悩を抱えることでより主観の地獄と向き合わなければならない。それをより深化させたのが555のオルフェノクだと考えている。

日本に生まれたことはインフラ、食事の点で他国に生まれるより圧倒的なアドバンテージであることはよくわかる。だからといって生まれる環境、親、学校、性格は選ぶことは決してできない。誰しもが少なからず理不尽な生に対するジレンマを抱えて生きているのだと思う。

子ども番組という制約からセックス、子育てを真正面からありのままに描写することはできない。(小説では提示されている)オルフェノクの最も有効な繁殖手段は人間をオルフェノクにして一定確率でオルフェノクになるかどうかというゾンビのような手法だ。

それは従来の生きている幸せを分けることを目的に子育てをするような(子ども側からすれば理不尽な生でもある)人の繁殖とは対照的に理不尽な生を受けた呪いを赤の他人に押し付けるような堕落的な行為にしか見えない。

この繁殖描写は中盤以降ほぼ見られなくなった。

こうしてオルフェノクという存在はただ生きて、自分の遺伝子や思想を残すこともなく灰になって消えていく空虚な存在の代表として意識に刻み込まれることになった。

命は限られている、でも生きる理由や夢なんか探す必要はない

終盤、オルフェノクは普通の人間に比べて寿命が短いという事実を告げられる。それを知ってから主人公始め主要キャラは「自分はどう生きるべきか」を深刻に考え始める。余命宣告されたとしたら誰もが通りそうな道だが、ドラマのメッセージとして受け取るなら「命が有限であると知れば人は懸命に生きられる」という陳腐な説教でしかない。

しかし、最終回は啓太郎の夢をそのまま借りた形で巧が夢を持つ。さらにもう一人のたっくんことラッキークローバーの琢磨は工事現場で汗水流して働いている。ここで琢磨をしごく現場監督に脚本家の井上敏樹が演じているのは偶然というべきか。

肉体労働という同じ作業を毎日のように繰り返し、ほぼ同じ給料を受け取っていく空虚な日常を受け入れることを琢磨は選んだのだ。この選択はこれまでありがちだった空虚な日常を受け入れるぐらいだったら過激ですぐにでも命を散らす可能性があるスリリングな生を選択するというフィクション特有の視聴者を酔わせるようなメッセージとは正反対の道を行く。

夢が持てない、自分の限界を知りすぎている、生きられる範囲が狭すぎる。そうした現実を受け入れる。オルフェノクの寿命が短いからといって自分の命が長命なんて保障はどこにもないのだから、ただ生きるだけでもいいじゃないか。オルフェノクという異形の存在を通して、555は過激さとは違う空虚な日常に対する解答を示した作品なのだ。

555のラストは余韻が残ると評価されているが、私はとても痛快に見えた。家族愛や友情愛という強固な交わりを強制するわけではなく、各々が生きるように生きればいいという投げっぱなしに見えるがこれが一つの井上敏樹の人生観であると分かる解答になっている。